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アダム・フィッシャー&ハイドン・フィルハーモニー・ファンクラブ会報バラートムとはハンガリー語で「私の友達」という意味です1996年8月1日 ― 第12号
マーラーとオーストリア・ハンガリーの伝統 − コンサート・プログラムよりフィッシャーさんとハイドン・フィルハーモニーは3月11日にロンドンでマーラーの交響曲第四番を演奏しました。このプログラムにフィッシャーさん自身がマーラーについて、とても興味深い寄稿をしています。ここにその全文を掲載します。
ウイーンとブダペストの音楽家達はたくさんの伝統を共有しています。どのように演奏すべきだというマーラーの指示を軽視あるいはボイコットすることもそのひとつです。1970年代まで、彼らは"Schaltricher auf"(ベルを高く掲げる)、"Horner stehen auf"(ホルンは立ち上がる)等の指示をたびたび無視してきましたし、今でも不承不承です。 現在のように本物指向の演奏が全盛の時代では、奇異に感じられるかもしれません。人々はマーラーの(時には明らかに普通でない)指示に文字通りに従うことを望むかもしれません。しかしながら、現実はそうではありません。多くの場合、批評家や聴衆、時には指揮者にさえ顧みられることなしに、演奏者は嬉々としてマーラーのフィンガリングやボウイング等を簡略化してしまいます。これは世界中の音楽家たちの一般的な習慣です。しかし、ウイーンとブダペスト(この二つの都市は同じように、マーラーを単なるオペラ指揮者として冷遇しました。)では、マーラーに対する深い感情的嫌悪が残っています。1970年代にまだ私がウイーンの学生だった頃、ウイーンフィルハーモニーの主席ホルン奏者に、"Schaltricher auf"の指示を本当に守るかどうか聞いたところ、彼は「もちろんしないよ。ありがたいことに、サーカスではないのでね。」と、とても不快そうに反発しました。また、私の父から聞いた話ですが、50年前にはマーラーの交響曲第1番の世界初演をした知人たちが何人も生きていて、演奏後数十年を経ても、彼らはマーラーの人となりと音楽に対して、変わらぬ嫌悪を抱いていたそうです。「Malheur(ブダペストでの彼のニックネーム)さんは素人だよ。」 感情を伴うにしろ、そうでないにしろ、マーラーは彼が望んだように演奏されてはいません。交響曲第四番において、ヴァイオリンは3小節めのフィンガリングを使わないし、チェロは21小節目のボウイングを守らない等です。どうしてでしょうか。時には異なる手段において、同じ効果を得ることができます。マーラーは誰も信用しませんでしたが、いつも最適な方法を指図している訳ではありません。彼の目的は主にかけ離れた演奏を避けることにあったので、その指示は時にはやりにくいのです。このような場合には演奏者が異なった手法で演奏をすることも理解できます。結果が重要なのですから。しかしながら、たとえば交響曲第一番のスケルツォの伴奏のボウイングの指示のように、根本的に異なる音楽の概念を示すものもあります。これらのボウイングは伝統的なものとは全く異なっており、私が知る限り誰も実行しません。 少なくともウイーンとブダペストにおける、マーラーのが望んだようにマーラーを演奏することに対する反発は、心理的な理由もあると思います。マーラーは傲慢な態度で彼自身を表現しました。彼が何を望むかを述べる代わりに、演奏者に対して、どのように演奏しなければならないかを具体的に指示したのです。クリエイティブな音楽家達は非常に神経質になり、反発します。私自身も同じ反応をした経験があります。マーラーは指揮者にさえ、拍子(2分音符や4分音符など)の取り方を指示しています。私自身も演奏者と同様いらいらしてしまいます。指揮者の技術は個人個人のものです。作曲家はアクセレランドやリタルダンドなどを指示しても、それが小節の2拍めか4拍めかは指揮者が決定することです。いらだちはごく普通の最初の反応で、演奏者達の不満はよくわかります。重要なソロを前にしたティンパニー奏者が、"gut stimmen !"(「よくチューニングしろ!」 − 交響曲第5番)という不吉な指示を突きつけられたら、これ以外にどんな感情を持つことができるでしょう。 演奏者はこのフラストレーションに打ち勝たなければなりません。マーラーは(ほとんど)いつも正しいのです。ティンパニーのソロは、実はしばしば音程がはずれていますし、もし指揮者が拍子を正確に変えなかったら、オーケストラは引きずってしまいます。これは困った事実です。しかしながら、内面に反感をもってマーラーを演奏することは、総ての指示を忠実に守らないことよりも、ずっと悪いことなのです。演奏者の中には、「従わせるために」演奏する人もいます。わたしは、ヴァイオリニストがマーラーの指示通りにダウン・ボウで、ただし弓を弦から離さないで演奏しているのをよく見ます。このとき、マーラーが意図した3つのワイルドなアクセントの代わりに、上品で厳かなビブラートを奏でてしまいます。これがマーラーに起こり得る最悪のことなのです。 それでは、オーストリア・ハンガリー・ハイドン・フィルハーモニーのマーラーはどうでしょうか。私たちは作曲者の指示に出来る限り従うように心がけました。もし、たとえば音響や異なる演奏技術のために、期待された効果を得ることが不可能な時は、マーラーの意図を実現する異なる方法を求めることはあります。しかし、このような場合はごくわずかな例外としなければなりません。マーラーの指示、つまり彼の狙いやなぜ彼がこのような方法で実現したかったのかということは、総て余念無く調べられなければなりません。もしも演奏者が何かを変えたいならば、とても重要な理由がある場合に限られます。「彼らは何をしているかわかっていなかった。」は言い訳にはなりません。 私はマーラーが望んだように演奏することにおいて、まるでマーラーのフィンガリングやボウイングを取り入れることだけが、なにかトリックでも行うかのように、この点の重要性を誇張したい訳ではありません。これらの交響曲を演奏するという圧倒的な挑戦においては、これは比較的小さな関心でしかありません。しかし私は彼の指示を重視しないという態度には反対です。演奏者として、私たちはまず第一に演奏者が望むことを全般にわたって細かく調べ、彼の意志を私たちの確信にまで高めなければなりません。作品の理解がこの域に達した後にはじめて、個性的な演奏が生まれるのです。マーラーの音楽もハイドンのそれと同様に「正統に」演奏されなければなりません。今日の演奏のメッセージは、作曲者が言おうとしたことでなければならないのです。マーラー自身以外に正当性とは何かを正確に言い表した人はいません。「私たちは灰を礼拝するのではなく、炎を燃やし続けなければならない。」("Wir sollen die flamme bewahren, nicht die Asche anbeten.") © アダム・フィッシャー、1996年 日本語訳 大島早由里 ニュースレター12号の先頭に戻る
編集後記いよいよ夏の音楽祭シーズンがやってきました。インターナショナル・ハイドンターゲ‘96もまもなく開催されますが、本ファンクラブの会員も何人か、参加する人もいると思います。本会の会員は全世界に分散しているので、総会を開くことは困難ですが、ハイドンターゲは良い機会です。特に日程は指定しませんが、期間中のコンサート終了後、アイゼンシュタットのレストラン、エーデルでファンクラブの交流会を開いてはいかがでしょうか。直接購読会員の方には、この会報に会員証を同封しました。バッジにするなど、他の会員を捜すのに役立ててください。間接会員やインターネット会員で必要な方は、ファンクラブまでご連絡ください。折り返しお送りします。 次回はハイドンターゲ‘96のレポートをお送りします。 ニュースレターの先頭に戻る
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